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■ビル・ワイマン

 サイレント・ストーンもしくはクワイエット・ストーン。ローリング・ストーンズの中にあって常に脚光を浴びるミック・ジャガーやキース・リチャーズとは対照的に、もの静かなビル・ワイマンは早くからそう呼ばれてきた。しかしながら、ビルはミックやキースの単なるイエス・マンでもバック・メンバーでもなく、自主性と行動力のある男だった。そのあたりが長い間、キースと反目し合い、ほとんど口も利かない状態になった遠因だったかもしれないが、例えば彼はいち早く単独で他のアーティストをプロデュースしたり、ローリング・ストーンズのメンバーで最初にソロ・アルバムを発表したりしている。

 本名、ウィリアム・ジョージ・パークス。1936年10月24日、ロンドンのルイシャムに生まれた彼は身長173センチの小柄なベースマンだ。音楽には幼い頃から接し、4歳でピアノのレッスンを始め、やがてクラリネットまでこなすようになる。その後、レス・ポール&メリー・フォードやジョニー・レイをきっかけにポピュラー・ミュージックに興味を持つようになるが、英国空軍に入隊し、航空兵としてドイツに駐留していた時にロックン・ロールを聴いてから漠然と自身の進むべき道を見出す。こうして58年に除隊してから様々な仕事をする一方で、60年にスクワイアーズ(その後、クリフトンズと改名)を結成して音楽活動を始める。

 そんな彼がローリング・ストーンズに迎えられたのは62年12月初旬のこと。後にプリティ・シングスの中心人物として活躍するディック・テイラーの後任で、その橋渡しをしてくれたのがいち早く彼らと活動していた、クリフトンズ時代の仲間であるトニー・チャップマンだった。1週間後にはローリング・ストーンズのメンバーとして、ロンドンのリッキー・ティック・クラブでステージ・デビューを飾り、年が明けると名前をビル・ワイマンと改める。ちなみに、ミック達がビルを加えたのはベーシストとしての腕よりも、当時としては貴重なヴォックスのアンプ、AC‐30を持っていたからだ、とビル自身が明かしている。
 63年6月に英・デッカより「カム・オン」でデビューしてから始まるローリング・ストーンズの破格の成功物語については省略するが、ビルは当初、チャック・ベリーに会うことという素朴な夢と、No.1ヒットを飛ばすことという、今から思えば小さな望みを持っていた。ミックやキースだけでなく、実はビルも音楽的に同好の士だったわけだが、その夢は64年6月に敢行した最初の全米ツアー中にシカゴのチェス・スタジオで実現。一方のNo.1ヒットは本国イギリスでは同じ64年に「イッツ・オール・オーヴァ・ナウ」で、アメリカでは翌65年に「サティスファクション」で達成している。

 ただ、人間とは欲深いもの。早々に自分の願いが叶うと、ミックとキース中心の創作活動に飽きたらず、65年1月のボビー・ミラーを皮切りにプロデューサー、ソングライターとしても行動を始める。彼がこれまでに手掛けたおもなアーティストは、ピーター・フランプトンを輩出したハードの前身にあたるプリーチャーズやハミルトン&ザ・ムーヴメント、エンド、そのエンドが発展したタッキー・バザード、サンズ・オブ・ヒーローズなどだ。また、彼の有能ぶりを証明する一例として、ローリング・ストーンズが67年に発表したサイケデリック時代のアルバム『サタニック・マジェスティーズ』に彼の書いた「イン・アナザー・ランド」が収録される。しかも、彼名義でシングル・カットまでされ、下位ながら全米チャートの第87位を記録(ビルボード誌参照)。これは長いストーンズの歴史の中でも異例のことである。

 異例と言う点では74年当時に、ミックやキースより先にビル・ワイマンが初のソロ・アルバム『モンキー・グリップ』(第99位)を発表したことも挙げられる。アメリカの南部に目を向けたそのアルバムにはローウェル・ジョージやドクター・ジョン、ダニー・クーチらに加え、彼が72年にサポートしたマナサスのダラス・テイラーとジョー・ララが参加。なんでもビルはマナサスのアルバムを大いに気に入り、ストーンズをやめて同グループに加入したいとまで思ったそうだ。もっとも、ザ・フーのピート・タウンゼンドでさえスモール・フェイセスに、同じくキース・ムーンはビーチ・ボーイズに加入したいと思ったことがあるようなので、こうした気持ちの揺れは珍しいことではないかもしれない。

 『モンキー・グリップ』の成功に自信を深めた彼は、2年後の76年にヴァン・モリソンやジョー・ウォルシュ、マーク・ナフタリン、ボブ・ウェルチらを新たに迎えた、明快な2作目『ストーン・アローン』(第166位)を、82年にはブライアン・セッツァーやクリス・レアなどが参加した、多彩でポップな『ビル・ワイマン』を、さらに92年には10年ぶりとなる『スタッフ』を発表。特に3作目の『ビル・ワイマン』にはイギリスおよびヨーロッパでヒットした「シー・シー・ロック・スター」(第14位〜ミュージック・ウィーク誌参照)や「ニュー・ファッション」(英・第37位)が収録されていることもあって、『モンキー・グリップ』(英・第39位)につづいて全英チャートの第55位にランクされる(注〜3作目までの作品は未発表のボーナス・トラックも収録した編集盤『The Bill Wyman Compendium:Complete Solo Recordings』でも楽しめる)。

 ローリング・ストーンズの記録マニアでもある彼は90年に伝記的内容の「ストーン・アローン」を書き下ろすが、残念ながら93年1月にかねてからの噂どおり、グループを脱退。面白いのはストーンズを離れると、ソロ名義ではなく、エンド時代から親交のあるテリー・テイラーの協力を得たプロジェクト・グループ、リズム・キングスを率いて活動し、これまでに『ストラッティン・アワ・スタッフ』(97年)や『エニウェイ・ザ・ウィンド・ブロウズ』(98年)、『グルーヴィン』(01年)、『ダブル・ビル』(01年)、『ジャスト・フォー・ザ・スリル』(04年)、『ビル・ワイマンズ・リズム・キングス・イン・コンサート』(05年)を発表している。

 かつてティーンエイジャーのモデルとの恋愛、結婚そして早々の離婚といったスキャンダルもあったが、彼のこれまでの経歴で見逃せないのは、79年のジェリー・ルイス筋萎縮症テレソンや、04年12月に東南アジア周辺で起きた津波の被害者救済プロジェクトなどを含むチャリティ活動に積極的なことだ。中でもロニー・レインを苦しめた難病、多発性脳脊髄硬化症の研究を目的とするARMS基金のためにチャーリー・ワッツやアンディ・フェアウェザー・ロウ、ジミー・ペイジ、ポール・ロジャースらに声をかけてウィリー&ザ・プア・ボーイズを組織し、『ウィリー&ザ・プア・ボーイズ』(85年)と『ウィリー&ザ・プア・ボーイズ・ライヴ』(94年)を発表していることがよく知られている。もちろん、ウィリーとはビル・ワイマンのことである。

 その他にも映画「グリーン・アイス」(81年)や「デジタル・ドリームス」(83年)のサントラを手掛けたり、ブルースに対する愛情が伝わる『ルード・デューズ』を編集したり、ローリング・ストーンズの名盤のタイトルを冠したカフェ、スティッキー・フィンガーズをロンドンで経営したりと、その活動は驚くほど多岐にわたる。そう言えば、まだグループ在籍時のことだが、「ローリング・ストーンズが大好きだし、なによりもローリング・ストーンズを第一に考えている」という、彼の発言を思い出してしまった。

(東ひさゆき)


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