プラケース仕様
デジタル・リマスタリング
ボーナス・トラック:各アルバム1~3曲収録!!!
解説・歌詞・対訳付
当時、『現人神』という仰々しい邦題で発表。ピートが現人神と敬っていたミハー・ババ(69年に他界)の組織のために限定発売をした『Happy Birthday』(70年)と『I Am』(71年)にも収録された楽曲であり、ジョン・リーブス(ジム・リーブスの甥と同一人物?)の作品と記されている「ハートエイク」は、ミハー・ババお気に入りの曲をカバーしたものである。また、『トミー』(69年)に続く壮大なプロジェクトになるはずだった『ライフハウス』関連の3曲も収録。アコースティックを基調としたサウンドには統一感がある一方、CCRを思わせる手拍子を取り入れるなど、変化にも富む。全米で第69位を記録。
スモール・フェイセスのメンバーになりたいと思っていたピートが、同グループのベーシストで、やはりミハー・ババの教えに共感していたロニー・レインと共同制作したアルバム。「ティル・ザ・リバーズ・オール・ラン・ドライ」がドン・ウィリアムスの作品である。ソロ・デビュー作と同じく、フーの時とは異なる肌触りが楽しめる。全米では第45位まで上昇。ローリング・ストーンズやフー、イーグルスで知られるグリン・ジョーンズがプロデュースし、バックにはエリック・クラプトンやチャーリー・ワッツ、同僚のジョン・エントウィッスルらが参加。
ピートがインタビューで“my first solo album”と呼んでいる作品。プロデューサーはこれ以前にプロコル・ハルムやプリテンダーズらを手掛けていたクリス・トーマス。ポップな「レット・マイ・ラブ・オープン・ザ・ドア」(第9位)や、ピート自身のお気に入りである「リトル・イズ・イナフ」(第72位)、「ラフ・ボーイズ」(第89位)が評判となり、アルバムもソロ最大のヒットとなる第9位を記録する。その「レット・マイ・ラブ……」のような明快なラブ・ソングがある一方で、キース・ムーンの逝去(78年)がまだ尾を引いているのか、タイトル曲や「アイム・アン・アニマル」などからは無常観、絶望感といったものが漂う。
ピート・タウンゼント、40歳の時のアルバムは“ミスター・ロック・オペラ”、“ミスター・コンセプト・アルバム”とでも呼べる彼らしい意欲作。サブ・タイトルとして“A Novel”と記されている本作は、彼自身が書いた短いストーリーに沿ったアルバムで、ロンドンの一角にある架空の地域、ホワイト・シティに育ち、デッド・エンドというグループのリーダーを務めるピート・ファンテインを主人公とする。おもな収録曲は、苦悩からの脱却を訴える「ブリリアント・ブルース」や、運命をテーマにした「クラッシング・バイ・デザイン」、過去を回想する「ホワイト・シティ・ファイティング」などで、全体を通じて問題点だけにとらわれず、希望を持って生きていく姿勢をアピールする。ここからは華やかでファンキーな「フェイス・ザ・フェイス」がヒット(第26位)。ピンク・フロイドのギタリスト、デイヴ・ギルモアの参加も本作における大きな話題だ。アルバムは全米チャートの第26位まで上がり、ソロでは『エンプティ・グラス』に次ぐセールスを記録している。
このCD2枚組はピート個人の膨大なデモ・テープの中から価値あるトラックをすくい上げたもの。事実、ピートおよびフー・マニアだけでなく、多くのロック・ファンの関心を集めたようで、アメリカでは83年に第35位まで上がるヒットになっている。ピート自身の解説を参考にすると、フー初期の頃から長期にわたる作品を収録。フー名義の『オッズ&ソッズ』(74年)と異なり、必ずしも未発表曲ばかりではないが、サー・ダグラス・クインテットでも意識したような「スクイーズ・ボックス」や、宗教色漂う、おどろおどろしい「マジック・バス」など、おなじみの作品がレアな状態で聴けるのがなんとも面白い。当然のごとく、「メアリー」といった『ライフハウス』関連の作品も収録。さらに、カントリー・ロック調の「クッキン」でペダル・スティール・ギターを弾いたり、「ゴーイン・フィッシン」で60年代後半のビーチ・ボーイズ、「トゥ・バーニー・ケッセル」でフュージョン・スタイルに取り組んだりと、普段から様々な試みを行なっている、前向きな姿勢が十二分に伝わってくる。
作品解説:東ひさゆき
全ての始まりは62年のことだった。学校を退学処分となった、ロジャー・ダルトリー(Vo)がディトワーズを結成。まもなく、ジョン・エントウィッッスル(B)が参加。ジョンの紹介でアート・スクール在学中のピート・タウンゼント(G)が参加。64年、ディトワーズからザ・フーに改名。あるギグに来ていたキース・ムーン(Dr)がバンドに参加することに。その後ハイ・ナンバーズと改名し、7月、デビュー・シングル「アイム・ザ・フェイス」をリリース。この年の10月、バンド名を再びザ・フーとする。
65年1月デビュー・シングル「アイ・キャン・エクス・プレイン」をリリース(全英第8位)。ここから彼らの快進撃は始まった。5月にはセカンド・シングル「エニウェイ・エニハウ・エニウェア」リリース(全英第10位)。11月にリリースしたサード・シングル「マイ・ジェネレーション」は全英チャート第2位を記録。そして満を持してのファースト・アルバム『マイ・ジェネレーション』発表(日本盤はテイチク・レコードから66年にリリース。プロデューサー、シェル・タルミーとの確執の為にその後2002年になるまで日本盤は廃盤状態であった)。このアルバムは全英第5位を記録する大ヒットとなり、当時の若者を代弁するバンドとして、そのエネルギッシュなパフォーマンスとともに彼らは一躍時代の寵児となる。その後の彼らの活躍はご存知の通り。
彼ら常に時代の先端を行き、新たな挑戦をしてきた。伝説的なライブをいくつも残してきた(67年6月、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。この日の演奏は記録映画に収められ、世界中で公開された。 69年8月、『ウッドストック』に出演。この模様は映画となって翌年公開され、ライブ・バンドとしての彼らの素晴らしさを知らしめるものでもあった。70年5月リリースの伝説のライブ・アルバム『ライブ・アット・リーズ』は全英3位、全米4位を記録。)。
“ロック・オペラ”という新たなジャンルを作り出したのも彼らだ。(69年5月発表のアルバム『トミー』(全英2位/全米4位)は映画化、そしてミュージカル化されロンドンのレインボー・シアターや、ブロードウェイ他にて上映された。いよいよ2006年、日本にも上陸決定!)
また、“コンセプト・アルバム”という言葉を定着させたのも彼ら。(73年11月発表のアルバム『四重人格』(全英2位/全米2位)は『さらば青春の光』として映画化され、今なお多くの若者たちに影響を与え続けている)
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